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基本情報
- 【開 創】
- 用明二年
- 【宗 派】真言宗
- 【住 職】
- 田中 全義
- 【供 養】水子供養
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永代納骨供養 |
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安産・求子祈願 |
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ペット供養 |
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護摩祈願・遺品供養 |
| お焚き上げ供養 |
| 極楽寺境内・重要文化財 |
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住 所 |
〒639-1061
奈良県生駒郡安堵町東安堵1453番地 |
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| お問合せ |
【TEL】06-6488-4498
午前10時〜午後8時 |
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真言宗 紫雲山 極楽寺は第三十二代用命天皇の時代、用明二年(五八七年)今から約一四〇〇年前に聖徳太子により建立されました四六ヶ所の内の寺の一つと伝えられています。
その当時はこのお寺の名前を常楽寺と申しまして、ここ安堵の守り神の牛頭天皇社(飽波神社)と、共に聖徳太子により建てられました。
沢山のお堂や伽藍を備えた大きな寺で聖徳太子の本願成就や牛頭天皇と仏法の守りを祈願したと伝えられています。
しかしながらこの栄えた勢いも聖徳太子が亡くなられた後はしだいに衰え、わずかに檀家の人々が見守ってきました。
聖徳太子無き後のこのお寺、常楽寺は平安時代の中ごろにはお堂が新しく建った別のお寺に使われたり場所を移されたりしてお堂の基礎の部分だけが残されて半ば言い伝えのお寺となりつつありました。
この事を嘆いてこの寺の再建に努力したと伝えられるのが、恵心僧都という偉い僧侶でございます。
寛弘三年(千六年)第六十六代一条天皇の御世に常楽寺を再考するようにと夢のお告げにしたがって諸々のお堂の再建の願いを立て、再建の詔を天皇より授かってようやく出来上がったのであります。
恵心僧都はこれは阿弥陀様のお蔭によるものであると信じ、この時よりお寺の名前を紫雲山 極楽寺と改めたと伝えられています。
当時はこのお寺の持っている領地は七〇〇石、僧侶の住む家は七〇余りもあったと言われ、また現在の本堂の南一〇〇mの所に南大門があったと言われております。
戦国時代の世になりますと大和の国はその支配をめぐって戦乱が続いていました。大和では興福寺が思慕の権力を持っていましたがその土地その土地の名手たちを宗徒国民と呼んで武力組織をつくっていました。当寺その宗徒の頭領で、現在の大和郡山市、筒井に本拠をおいていた筒井市と信貴山に城を構えていた三好長慶の家来、松永久秀氏との間で戦乱が絶え間なく続いていました。
このお寺もその戦乱で火災に遭い一五六九年に護摩堂などが焼けて無くなりお寺の領地はすっかり没収されてしまいました。しかし天承五年(一五七七年)には筒井順慶という侍の大将のよりお供え物などを作る田んぼと木や竹を切り取る事を禁じ動物の殺生を禁じた境内地をお寺の領地として与えられ永らく途絶えていた法要がまた営まれる事になりました。
戦国時代の終わり頃には真言宗の僧が極楽寺復興の為はいってまいりた。一五九六年にお堂の修復を行っております。
江戸時代の極楽寺は、極楽寺の本坊と僧侶の住まいが東之坊、西之坊、南之坊、北之坊、角之坊、奥之坊の六ヶ坊ありました。境内には本尊阿弥陀如来坐像を安置した本堂と庫裏とお経を納めたお堂がありました。
このお寺の本部にあたる東之坊には代々住職の僧侶が入って相続していました。この時東之坊の本尊には聖観音菩薩立像を安置しておりました。
しかし貞享四年(一六八七年)には東之坊を除く五ヶ坊はすでに耐えているとの記載があります。
極楽寺は飽波神社祭りに関係がある神と仏の調和とれた性格を持つお寺でした。
そのため、明治の初めに起こった廃仏毀釈また、神仏分離によって始まった神社と寺院の争いにこのお寺も荒れ果てて住職のいない無人のお寺となったりあるいは兼務の住職によって保たれた時期もありましたが現在は
重要文化財 阿弥陀如来坐像はじめ数々の文化遺産を保持しております。昭和六二年より現在までお堂の修復、建て替えなど終え、現在はご覧の通りの境内です。 |
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